学園創立者 山口久太先生について

昭和58年4月に書かれた山口久太先生の著書、「目で見る 私の人生行路」より抜粋して、先生についてあらためてご紹介したいと思います。

久太縦横

序文 
 私を戸籍通りの「ひさた」で呼ぶ人はいない。自分でも「きゅうた」と呼んで久しいが、ともかく山口久太。 明治44年、明治世代の最後の一人として佐賀県相知に生まれ、大正・昭和の3代を生きて、本年(昭和58年)72歳を迎えた。
 私はたくさんの人生を生きてきた。天時、地利、人和の人生の因縁の中で、私は私なりにたくさんの人生布を織ってきた。
 貧困と立志、慈愛と克苦、友情と連帯、文武両道と師弟一如、教育とスポーツ、スポーツ交流と世界平和、松陰精神と久太魂など、私の人生布を織りなした、縦糸と横糸は多種であり、多彩であった。経験まさに絢爛、縦横まさに無尽であったと思う。おかげで私は私なりに、手ごたえのある、みごとな、たくさんの人生布を織ることができた。
 私の織りなした人生布は、ある時は、粗末だが丈夫な木綿布であった。ある時は、失意と焦燥、落胆と奮起の襤褸(ぼろ)布であった。そしてある時は、大きな人の輪の中にあって、勲褒の綾絹(あやきぬ)であったこともあるし、又ある時は、天皇陛下の至近に侍して、国民体育大会絵巻という華麗な錦布の、ひときわ鮮やかな模様であったこともある。
 どれもこれも私の織りなした人生である。
 私は、いま、私の人生布を、ひと切れ、ひと切れ、拡げてみたいと思う。歓哀楽怒の人生山河を越え去り来った私に言葉はいらない。古往今来、時々処々の、山口久太の「わが人生布」を見てほしいと思う。その、ひと切れひと切れに、鬼子母尊神に導かれて不思議にあやなす「久太人生」の縦横の糸が見えて絶妙であると思うからである。

    -昭和58年4月、八千代市村上の自宅にて自序―

天皇陛下のおそばで国体委員長

 昭和54年から、日本体育協会理事として、国体委員長に就任した。
 国体委員長は、国民体育大会についての全責任を負って、その運営にあたるのであるが、特に、夏季大会においては皇太子殿下・同妃殿下の、秋季大会においては天皇・皇后両陛下の、冬季大会においては各宮殿下の、それぞれご案内とご説明という大役がある。 
 この世に生を受けて以来、わが人生においてこのような大役をお受けすることになろうとは想像もしなかった。果たしてこの大役を成し遂げられるだろうかと不安に思う反面、日本男子たるものの栄誉と欣快これに過ぎるものはないという感激でもあった。 
 もし両親が生きていたら、どんな言葉で、どんな表情で、わが息子の尊い使命を表現したであろうか、と思うにつけ、親孝行の仕上げのつもりでこの大役に打ち込んでいる昨今である。
 幸い、委員長就任以来、第34回宮崎(昭和54年)、第35回栃木(55年)、第36回滋賀(56年)、第37回島根(57年)の大会を経て今日まで、つつがなくこの大役を務めることができたが、これもひとえに国民及び国体関係者の協力と、中でも特に今は亡き父母の霊と、日頃信仰する鬼子母尊神のお力のおかげであると、改めて心から感謝しなければならない。

 皇太子ご夫妻 あかぎ国体冬季大会スケート会場へ
 第38回国民体育大会冬季大会(あかぎ国体)の開会式にご臨席になった皇太子ご夫妻に説明する山口久太・国体委員長。あかぎ国体は、”風に向かって走ろう”のスローガンのもとに開かれた。(昭和58年1月26日 群馬県 伊香保ハイランドスケートセンター) 
 「近年、美智子さまの素顔が非常に美しい」開会式でご説明した山口久太・国体委員長は語った。

 第28回国民体育大会秋季大会(千葉国体)は、天皇・皇后両陛下をお迎えして、48年10月14日から5日間にわたって千葉県総合運動場陸上競技場を中心にして全県下で開かれた。
 第28回千葉国体で総合優勝を獲得。陸上400メートルリレーで優勝、選手と感激を味わう山口久太・県選手団長。

叙勲 勲3等瑞宝章 昭和56年4月 藍綬褒章 昭和49年10月

 勲3等瑞宝章の叙勲の内示は、4月上旬にあった。
 天皇誕生日の各新聞紙上の生存者叙勲の中に改めて自分の名前を見て、その功績を自問自答しながらも、その感激を新たにした。
 昭和56年5月8日、天皇陛下お招きの園遊会が赤坂御所で行われた。清浄な空気、地面に映える目のさめるような新緑、それにもまして、天皇陛下をはじめ皇族方のお元気な姿に接して何より喜びを感じた。私の前にお出ましになった皇太子殿下、同妃殿下に目礼すると、妃殿下は立ち止まられて傍らの浩宮さまに「この方が国体委員長の山口さんです。よく覚えておくように」という意味のお言葉があり、このご紹介に私は驚きとともに一瞬言葉にならぬ感動が身体中に走った。
 5月15日、国立劇場において文部大臣より勲章を下賜された。勲3等瑞宝章を首にかけて宮中に赴く。宮殿「桔梗の間」で天皇陛下よりお言葉を賜り、本当に勲章を戴いたという実感が湧いてきた。記念撮影で受賞儀式が終わり、新緑濃い宮中を後にした。終始緊張のあと、無事終了の安堵と受賞の喜びが二重になって感慨ひとしおであった。夕食の時、宮中に初めて妻と召されたこと、天皇さまからお褒めの言葉を戴いたこと、一生の喜びですと妻は涙を流した。叙勲の功績の半分は妻の内助の功であることを思い、晩酌の盃を片手に、私はしばし黙然として妻のつぶやきを聴いた。
 6月14日、雨の中、八千代松陰高校の大講堂で千葉県知事以下650名の参集を得て、私の叙勲祝賀が催された。感謝の辞の中で、「家庭に於いては、皆さんの想像以上に無口で乱暴な夫である。そんな男に20余年尽くしてくれた妻に”心からありがとう”と申すことをお許しください」と述べ、スポーツ指導に明け暮れる夫を代表したつもりで、その妻たちへ感謝を捧げた。
 一日休養して、両親の墓と小学校の恩師小松原源造先生の墓に叙勲報告するために帰郷した。山の緑、川の清さに変化はあったが、故郷は温かく迎えてくれた。
 私は佐賀県相知町の極貧の鍛冶屋のせがれとして生まれた。名人気質の父と慈悲深い母の間で、厳しい躾の中でも愛情に満ちて育った。極貧のため中学進学は断念し小学校の高等科に入ったが、小松先生は1年がかりで父母を説得し、父母も断腸の思いで私の唐津中学進学を認めてくれた。海軍兵学校へ進むという条件で佐賀県育英学生となれたからである。唐津中学で過度の勉強のため近視になり、兵学校へはあきらめた。恩師は下村湖人校長(小説・次郎物語の著者)であった。五高進学を勧める周囲の猛反対を押し切って、「日本一の体育教師」をめざして東京高師体育科に進んだ。体育の恩師、竹村定身先生の影響であるが、私の人生の命運は実に唐津中学の校庭に於いて決せられたというべきである。

生い立ち あゆみ

明治44年 4月  佐賀県東松浦郡相知町二軒茶屋に生れる。
大正15年 4月  佐賀県相知町尋常高等小学校高等科一年卒業
昭和 5年 3月  佐賀県唐津中学校卒業
昭和 9年 3月  東京高等師範学校体育科甲組卒業
昭和 9年 4月  山梨県甲府中学校教諭
昭和11年 8月  広島県立広島第一中学校教諭
昭和14年 5月  応召支那事変参加
昭和17年 3月  千葉県庁学務課
昭和18年 5月  任地方事務官(高等官7等)千葉県勤務
昭和20年 9月  千葉県佐原女子高等学校校長
昭和23年 6月  千葉県船橋高等学校校長
昭和27年 9月  千葉県教育委員会委員(公選)
昭和32年 1月  千葉県習志野市習志野高等学校校長
昭和42年 4月  千葉県顧問
昭和44年 8月  東海大学第一高等学校校長
昭和46年 4月  東海大学教授兼体育学部長
昭和49年11月  藍綬褒章受章
昭和52年12月  学校法人八千代松陰学園理事長・八千代松陰高等学校校長
昭和56年 4月  勲三等瑞宝章受章
昭和57年 4月  八千代松陰中学校校長

八千代松陰高等学校

八千代松陰学園建学の精神
 「親孝行をしない者は、人間のクズだ」
 私は、九州・唐津の片田舎の炭坑町の相知町の生れだ。それから70年間に多くの良き友、良き師、に恵まれて今日に至っている。私の魂に最も強い影響を与えて、私の教育観、人生観を育ててくれたのは、実に両親であった。私の最も尊敬すべき人、最も良き師は父であり、母であった。両親は全くの無学文盲であったが、今日の学歴万能社会でもこの無学文盲の父母にまさる尊敬すべき人を知らない。
 私は日本の現状を政治、経済、教育、文化のすべての面にわたって”動乱の時代”と把握している。特に教育において大転換が求められていると固く信じている。現在の教育の在り様はこれでよいのか ― 私は強い不信と危機感を抱いている。
 かつて幕末動乱の折、吉田松陰先生は松下村塾において、新しい日本の夜明けを目指して多くの人材を育成、松陰先生は志半ばにして国に殉じたが、命を賭して先生が育てた青年は、立派に明治維新を成し遂げた。
 今日の日本の教育危機を打開するため、この松陰の教育精神を今日に生かさんと志sh、「松陰」の名を戴き、八千代松陰学園を創立したのである。
 豊かな個性と幅広い人間性を目指し、スポーツを重視するユニークな教育課程に加えて、松陰教育には、厳格な生活指導、懇切丁寧な学習指導、父母との協力体制、精選され充実した教育内容など、創立の精神を日常の教育活動の中に具体化させ、粘り強く実践する必死の日々である。

山口久太先生 生誕100周年(平成23年)

2011年6月20日から29日までを創立記念週間とし、学園通信に3週間にわたり掲載されたものを紹介します。

2011.6.14号より 久太語録①

「親孝行しない者は人間のクズだ」

山口久太先生は明治44年(1911年)佐賀県唐津市に生まれました。父親は口数の少ない人でしたが、腕の良い鍛冶職人でした。黙々と働く父の後ろ姿に久太少年は大きな影響を受けました。母親は優しい人でしたが、しつけには厳しく、特に掃除については妥協を許しませんでした。毎朝拭き掃除を行うのが久太少年の日課でした。「ここは親の頭と同じだ」と言われていたので、玄関の入り口の敷居と大黒柱は特に念入りに拭いていました。当時を振り返って、山口先生は次のように語っています。

「私の教育観、人生観を育ててくれたのは両親であった。私の最も尊敬すべき人、最も良き師は父親であり、母であった。両親は全くの無学文盲であったが、父からはすさまじい人間の生きざま、働くことの尊さを学び、母からは本当の愛情、信仰心について教えられた」

冒頭の言葉は厳しい表現ですが、それだけ山口先生の強い信念が込められています。

2011..6.20号より 久太語録②

「私がもし生まれ変わって、再び学園を創立するとすれば、必ず君たちを生徒として迎え、一緒に学びたい。こう言わせてくれる皆さんに心から感謝いたします」

これは、松陰高校第1回卒業式における山口久太先生のことばです。山口先生はひと言で表現するならば「豪放磊落(らいらく)」。小さな事にはこだわらない。とても快活な先生でした。また涙もろい一面もあり、生徒を前に話をしながら感涙にむせんだことも一度や二度ではありませんでした。冒頭のことばは、そんな山口先生の人柄を伝える象徴的なことばです。「今でも久太先生のことばは忘れられないほど感動した」と語る卒業生がいるほどです。山口先生は、自分の志に共鳴し、この八千代松陰学園にたくさんの教職員と生徒が集まってくれたことがうれしかったのだと思います。そして、保護者も含めて、皆が一体となって必死に学校づくりをしてきた感慨が、このような祝福のことばに結実したのでしょう。このことばはさらに次のように続いています。

「これが真心を込めた私の惜別の言葉でございます。では卒業生の皆さん、また懐かしいこの学校でお会いしましょう。そしてまた声高らかに校歌を歌いましょう。」

2011.6.27号より 久太語録③

「私は若者に贈る言葉として、希望の光を求めて己の信ずる道をひたすらに進むのが人生だと言いたい。」

山口久太先生は若者を信じ、若者に大いなる期待を抱いていました。この言葉は次のように続いています。

「人生の”道”は自ら茨を切り拓き、流れた橋をかけ、自分の足でしっかりと踏みしめていかなければならない。舗装された平らな道を、車でとばしていくのとはわけが違う。人生の”道”で幾つか出会う分岐点には信号や標識もないしどちらへ行くかは全く自分の判断でしかない。諸君が幼い頃は母親に背負われ、父親に手を引かれ、進路は親任せであった。しかし年とともに次第に親の庇護から離れて、一人で”道”を歩むようになる。諸君の年齢がそろそろその時期にあたるのではないか。人生の”道”は決して安易なものではないが、私は諸君の若さと情熱に期待したい。」